秋葉界隈散策A「 芳林公園」 By 2SC1306 (H19.04.10)
ども、Dynaです。まーすけ隊員が始めてくれました「秋葉界隈散策」ですが、結構良い反応です。
それでは、ということで当方も考えていたのですが、なかなか実施出来ないでいます。そんな折、
2SC1306さんから、芳林公園の由来レポートをいただきました。この公園は、我々にとっても
「黄色い公園」(多分黄色い滑り台があるため)として、おなじみですね。では、早速拝見しましょう。
皆さん、お世話になっております。2SC1306です。
まーすけさんの「秋葉界隈散策」レポートに触発され、
アキバを訪れる人の憩いの場、芳林公園についてその由来を調べてみました。
今までにも話題に上がっていたかも知れませんし、あまり面白くないかも知れませんが・・。
芳林公園は1930年(昭和5年)、関東大震災復興事業として整備された
「震災復興52小公園」のひとつです。1923年(大正12年)の関東大震災では
当時の東京市の半分近くが焼失しました。
そこで東京市の手により、小学校の校庭と市民の公園を併せて確保するために
52の小公園が設けられました。その際、旧芳林小学校(1993年淡路小学校との
合併により昌平小学校となる)に隣接して設置されたのが芳林公園です。
旧練成中学校(当時は練成小学校)隣りの練成公園も同様に設置されたものです。
こうした経緯があるので現在でも昌平小学校の避難訓練では芳林公園が
避難場所になっており、避難通路として小学校から歩道橋が架けられています。
また、児童が公園の清掃作業をすることもあるそうです。公園にたばこの吸殻や
ゴミを放置するジャンカーはごく少数だとは思いますが、子供たちに笑われます。
気をつけましょう(^-^)v
秋にはイチョウが見事に黄金色に
「芳林」という名の言われは1857年(安政4年)、現在の秋葉原駅近くにできた
私塾を加賀藩主前田斎泰公が「芳林堂」と命名したことによります。
これが芳林小学校の前身です。
加賀藩の屋敷は本郷の東京大学敷地内にあったことは有名ですが、1682年の
「天和の大火(お七火事)」までは昌平小学校南側の神田金澤町にありました。
(注 万世橋近くに筋違橋という橋があり、その近くに加賀原と呼ばれていた土地も
あったようです。ここにも加賀藩の屋敷があったようです。)
加賀藩前田家の家紋は梅の花です。おそらく屋敷には美しい梅林があったのでしょう。
その梅が咲き競うように子供たちの学問が花開くことを願い、私塾を芳林と名付けたのでは
ないでしょうか。ちなみに旧芳林小学校の校歌にも梅とのかかわりが詠われています。
通称「黄色い公園」の根拠になった滑り台 こんなのもあります。
「黄色い公園」でひとやすみする際のネタとして。では失礼します。
2SC1306
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出典
公園記念物の探求
http://www.geocities.jp/zouenkasyudan/index.htm
昌平小学校ホームページ
http://www.shohei-e.ed.jp/
これらのサイトの記述の他、千代田区役所へ問い合わせ、
いただいた回答などをもとに文章を構成しました。
ども、Dynaです。レポートありがとうございました。
黄色の公園には多くの方々がお世話になっていると思います。当方も、必ず立ち寄っています。
また、9月には金木犀が、12月にはイチョウの黄金色が見事です。お花でも楽しませてくれますね。
しかし、そんなにお世話になっている公園の由来など、気にもしませんでした。おかげさまで、
勉強になりました。 By Dyna
こちらのトイレにもお世話になりますね。